学校法人城西大学 欧州研究センター Josai Center for European Studies

国際学術文化振興センター(JICPAS)

ヨーロッパを学ぶ・楽しむ

「セカンドハンドの時代:「赤い国」を生きた人びと」を読んで

2017.1 久米五郎太

最近、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチ、松本妙子訳、「セカンドハンドの時代:「赤い国」を生きた人びと」(岩波書店、2016年)を読んだ。この本は作者が2013年8月に、16年ぶりに発表した最新作。原著のロシア語とともにスウエーデン語などの訳がほぼ同時に出され、2015年のノーベル文学賞を受賞した。その日本語訳はほぼ一年後の、昨年11月に刊行された。
  1月中旬に大学図書館から借り、初めの数章を呼んだところで頓挫していたが、時間をつくれた週末に残り550ページを一挙に読んだ。全体はプロローグと2部(各部にはイントロダクションと10のテーマでのインタビュー)そして最後のごく短いエピロ−グからなる。会話が圧倒的大部分を占め、ドキュメンタリー的な作品といっても良く、フランスの2013年メデイシス賞はエッセイ部門での受賞である。ジャーナリストである著者はこの形式でいくつかの作品を発表しており、ノーベル委員会は、これらの一連の作品を対象に、受賞理由を「多声(ポリフォニー)からなる著作はわたくしたちの時代の苦悩と勇気の記念碑」だとしている。急いで読んだだけだが、この本一冊だけで、この現代ロシアを題材にした交響曲を聞いたような印象を持った。昔小学校の時代にクラスの生徒が全員参加し、あちこちで立ってセリフを言うソ連の劇を演じた記憶がうっすら残っているが、なにか共通するものを感じたりもした。

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著者は、1948年にソビエト連邦(USSR)生まれの女性。一時は専制政府の続くベラルーシ(白ロシア)から離れ、西欧に居を移したが、現在はふたたびそこに戻り、住んでいる。母の出身のウクライナの家で生まれ、父の出身のベラルーシの家で育ち、ジャーナリストとして働き、ロシアの文化の家にいると言っている。ベラルーシは首都ミンスク、旧ソ連ではもっとも西に位置し、東側は現在のロシアではあるが、西側は南から北へウクライナ、ポーランド、リトアニア、ラトビアにそれぞれ面している。ポーランドに接する、いわば西側との最前線であり、第1次大戦での休戦条約締結、第二次大戦でのドイツとの戦闘、ドイツの占領下の歴史などもよく知られている。
  作品はゴルバチョフのペレストロイカ、エリチェンによるソ連解体を含む90年代(1991−2001年)と、プーチン政権になってからの10年(2002−12年)のふたつの時代を取り上げている。その時代の出来事を扱いながら、同時に、その前の共産主義全盛の時代、ソ連の「赤い」時代に生きた、実に様々で多彩な人々の人生を、インタビューのなかで浮き彫りにする。登場するひとつのグループは、資本主義への移行と新しい民主主義に大きな期待を抱いたものの、結局新しく生まれた成金社会にはついていけず、生活に困窮するロシアの知識者層など一般の人々である。かれらの多くは赤い時代は、物質的には貧しい生活のなかにいたが、都市の知識者層では読書、観劇、音楽などの文化的な活動も広く行われており、それなりの平安と満足もあった。
  他方に、ソ連の時代に理想主義的な共産主義の大義に燃え、国の建設に誇りを持ち、献身した人びとというもう一つのグループが存在した。彼らは連邦という大きな国の制度を支え、ドイツとの戦いやアフガニスタン派兵などいくつもの戦闘に参加し、シベリアの処女地開拓に加わり、そしてスターリンのもとでの激しい抑圧や異民族の強制移住に直接、間接に関与した層である。
  こうした知識者層の幻滅と共産主義を先導した層の過去への郷愁が全体を大きく流れる基本的なトーンである。21世紀に入ってからのプーチン体制の下で、過去の強いロシアの復活を求める最近の人々の精神が、多分そこに由来すると気がつく。
  第2の主題は、特に第2部において触れられている、イスラムのコーカサスや中央アジアの人々の戸惑いである。多民族国家たるソ連が抱えきれずに手放した、独立した多くの共和国で、突如燃え上がる隣り合う民族間の対立激化を逃れんとし、また生計を立てる機会を求めて、親近感のあるロシアに移る人たちが21世紀になり増えている。独立後四半世紀がたち、ロシア語もできず、イスラムの文化を持ち込む人びとは、いまやロシア人から不法難民として嫌われ、右翼からは攻撃を加えれる。スターリンの時代にはロシアのポーランド侵入(大祖国戦争)の後、百万を超えるポーランド人がシベリアなどに強制移住させられ、白ロシアでもタタール人やロシアから移住された多くの東方ユダヤ人が過酷な迫害を受けたことを、インタビューは物語る。ドイツや日本の捕虜がソ連のなかを遠くに運ばれ、強制労働に従事させられたことも頭に浮かぶ。欧州への難民急増問題は、現在のところ少しは落ち着いたかに見えるが、ロシアにおいても、アメリカでも同じだが、異民族の共存と移民・難民はその国の歴史そのものでもあり、現在の問題でもあることを強く感じさせる。
  第3のグループはいわゆる庶民であり、主に農民層のロシア人である。彼らはいつの時代にも思想や理想から離れた場所で、厳しい気候の大地で耕作し、労働をしてきた。男たちはウオッカを飲み、体を壊すまで飲み、女は夫からの暴力を受け、子供を連れ、夫から離れる。愛を求める気持ちが強い。こうした光景は、女性である作者ならではの視点である。

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この本は結局何を訴えたいのか。著者の書く部分は限られているが、前書きでプーチン大統領のロシアを批判し、最後のインタビューでは1994年から続く、抑圧的なベラルーシ大統領に反対し、2010年の不正な大統領選挙に抗議し、デモに参加する人々を描く。(その後、大統領は2015年に五選された。)著者は、今のロシアは昔のソ連の「古着」を着、古くなった思想を再び掲げており、スターリン体制では一般の人たちが共犯者であったと、厳しく書く。アイヒマンは自分たちのなかにいたと卓見した、ハンア・アーレントを思い出す人もいるだろう。
  この作品は2015年のノーベル文学賞を受賞している。この年はいまだ記憶にあたらしいが、中近東、アフリカ、バルカンからの難民が西欧だけでなく、スウェーデンなど北欧にも殺到した。特に秋はトルコの海岸で溺れたシリア難民の子供の写真が欧州で大きく取りあげられた。前年のロシアのクリミヤ併合、ウクライナ東部への軍事侵入には、欧州は大きな危機感を持ち、EU全体による対ロシア制裁が今も続けている。
  こうした欧州のなかにあって、北欧、中でもスウエーデンは、ながく社会民主主義の盟主であり、欧州のいわば人間の顔をした社会主義を体現としてきただけに、ロシア型共産主義への関心とともに、反感も強く、人権保護の観点からのロシア批判も強い。スウエーデンは、ヴァイキング(ルーシ)が中世にベラルーシやウクライナなどに国を作り、ロシアとはこれまでも深い人種的・文化的なつながりがあった。他方で、軍事的には何度もロシアと戦い、敗れ、フィンランドも奪われただけに、ソ連の脅威には非常に敏感に、中立を守りつつも、西側に頼らざるをえない。過去に南オセチアにおけるロシアの軍事介入にはスウエーデンは抗議の声を上げたが、ロシアは強く反発した。こうしたことを考えると、この著作のノーベル賞受賞の国際政治的な文脈が見えてくる。
  前年の2014年文学賞は、第2次世界大戦終結70年を迎えるという時期に、ドイツ占領下のパリやユダヤ人の不安を書く、フランスのユダヤ系作家パトリック・モデイアーノに与えられている。この「セカンドハンドの時代」は、出版された2013年にフランスで賞をとり、そのごロシア、ポーランドでも賞を受けているが、独裁政権下でのベラルーシではノーベル賞受賞は報道されてはいるものの、それほど注目されていないと訳者後書きにある。

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日本はソ連・ロシアの東隣にある。私の世代は、チェーホフ、ドストフスキー、トルストイなどをそれなりに読んだ。レールモントフやマヤコフスキーなどの詩も目にしたし、またレーニンや「鋼鉄はいかに鍛えられた」も手にとった。ロシア革命に惹かれ、若いとき共産主義を信奉し、学生運動に燃えた先輩や仲間も少なくない。しかし、私にとってロシアはあまりにも大きく、その個人の精神や心を全体主義的な制度と合わせ理解するのは、難しいという感じがいつもあった。学生芝居を上演した「かもの」の没落する地方貴族と処女地開拓をするソ連の人たちとを結びつかなかったといえる。
  ベルリンの壁崩壊後の1990年代の記憶は、今やだいぶ薄らいできた。まずは中欧諸国で資本主義への体制移行が始まり、私自身も金融支援のために、ハンガリーやチェコに赴き、政策当局たちやワシントンの国際機関と意見交換をしたことがある。当時、経済改革の方法については、IMFや学者を中心に様々な議論がなされ、日本としては戦後の復興期における貿易や投資の自由化、明治の時代の払い下げなどの経験を伝えることを模索した。欧米の専門家と飛行機の席がとなりあったこともある。ロシアについては思いもかけぬ連邦の崩壊も加わり、一連の改革の実行が進まず、日本の資金協力は滞った。本書の中で、経済改革を進めた大臣や中央銀行総裁であるガイダールやチュバイスの名が登場するが、その頃に出張したモスクワや、駐在していたパリで体制移行国の債務返済や新規資本協力の会議に参加した思い出が懐かしく浮かぶ。帰国後、新潟で行われた環日本海協力の会議に参加した時の、ロシアの研究者たちの体制急変に戸惑っていたような様子も忘れられない。経済改革が、とくにバウチャー方式による民営化が結局はワイルドな資本主義につながったことは、この本に登場する多くのロシアの人たちとともに残念に思うが、ソ連型の共産主義経済システムでは民営化した企業の経営をする経済主体が存在していなく、日本の明治とは資本蓄積の状況が異なっていたという事情もあった。

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この本の聞き書きという形式に関して、著者は、「敗戦」と題したノーベル・レクチャーで、フロベールが人間のペンになるとと言っているのに対し、自分は人間の耳だと述べている。インタビューは録音し、色々と質問し、引き出したものを、読みやすく、興味をいだかせるように再構成したと思われる。創作はないかもしれないが、違う作品に採録された同じインタビューの内容が、若干変わっているとの指摘もある(“Witness tampered”)。文学は別に法廷の証言ではない。歴史と文学に差があり、この作品は無数の事実のなかから色々な声を選択し、重点を付け、配列を考えたところに、いわば文学的な価値があるといえのであろう。
  日本語訳はひとりの訳者がてがけており、非常に読みやすく、あと書きも簡略にして要を得ている。読者のために、地図、年表、人名注が加えられ、理解の助けになる。ここにある人名を眺めると、現代ロシアの大きな理解が出来る気がする。本のカバーには、一人赤旗を立て、花束を持ち、赤の広場らしいところを通りさろうととする女性の写真が使われている。この想像力をかき立てる写真は、欧州での出版でも使われているらしい。「セカンドハンドの時代」というタイトルはすぐにはピンと来ないが、よく考えるとなかなか意味が深い。フランス語版の「赤い男の終わり、あるいは幻滅の時代」は、少し直裁すぎる印象だ。
  著者はこの本で扱った「戦争と収容所」というソ連の国家の基幹と、個人、特に女性がよった「愛」を扱ったとインタビューで語っている。次作は、「愛」を主題にしたものに取り組んでいるらしい。
  広大なロシアについては、様々な観点から本が書かれる。この本は現代のロシアの人びとと今や忘れられつつある、彼らが生きた共産主義と体制変更の時代を描いている。世界の読者とつながっていることを意識しつつ、楽しみながら、そして少し学びつつ、読書をした。


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