サリンジャーの訃報が届いたのはインド洋を航海中のフジ丸に乗っていたときだった。2010年1月28日付けの新聞だった。航海中の船に送られてくる新聞記事は厳選され、短い。そんな中にサリンジャーの死の知らせが飛び込んできた。「文学的な隠遁者」「91歳」。すでに隠遁生活を始めてから50年の歳月が流れ、その間に新作の出版は皆無と言っていい。にもかかわらず、サリンジャーの名は『ライ麦畑でつかまえて』の主人公、ホールデンの名とともに人びとの心に刻まれ、時代を越えて新たな若者の心をとらえ、共感をもって迎えられ、世界中で読まれ続けてきた。ときにマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』のハックと並べられ、それぞれが異なる世紀の時代と社会を辛口で批判し、大人になることをどこかで拒否し、永遠の少年であり続けようとする生き方が共感をもって受けとめられた。
サリンジャー亡き後、21世紀の現在、彼が描いた若者の生き方を再考してみるのは意味あることだろう。我々が生きている現在、特に都会という空間であるニューヨークと東京が極めて近似した状況を呈している中で、彼が覚えた不安と希求した<心の原風景>をわれわれはもう一度、共有することになるかもしれない。もしそうならば、われわれはまだホールデンのようにイノセントな心をどこかに秘めて生きているのかもしれない。
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